うんこぶろぐ。鬱病患者うんこが綴る鬱病を治すブログです。

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横浜。

そんな訳で、ウンコは『死ぬ』って事に恐怖を感じなくなってしまったのである。
そりゃ、死に至る病の苦しみであるとか、そこへ至るまでの恐怖、親しい人々との別れという苦痛、それは否定できないのだが、
『死ぬ』という現象をあんまり特別に思わなくなってしまったのである。
別に臨死体験をしたわけではないのだが、立花隆の『臨死体験』て本でも紹介されていたように、『臨死体験をすると、死に対する恐怖がなくなる』という経験談に共感してしまうのである。

死は自然現象である。
誰にでも起こる事であって、特段別段特別視する必要もないのではなかろうか、と考えるに至ったのである。

なんだか、人間は『死ぬ』って事を、
あまり意味のない象徴として扱いすぎたんじゃなかろうかと思うのである。訳分からんから、何でも『政府のせいだ』と同じ感覚で、例えば負の感情の極北と位置付けたりだとか、ペシミスティックの極北であるとか、悲劇の頂点であるとか、
要するにやりすぎなのである。装飾華美なのである。

単純に『おしまい』なのだ。死ぬなんてもんは。
自分史の。

同時に生きるということも自然現象で、凄く神秘っぽいけども、普段気にしない路傍の雑草と同じ意味でしかないのである。

生きる事だとか死ぬ事だとかに、美徳を感じる向きがあるのだが、どうもそれは人間の傲慢というか、アホさ、なように思われてならないのである。

最も重要視しなければならないのは、
生まれて、死ぬまでの『時間』をどう使うかではなかろうか。
そこになんとな~く、
生きる事と死ぬ事ではない、人間独自の賜物があるように思えてならないのである。


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